どうも携帯電話の調子がわるい。

 その理由ははっきりしていて、お風呂に浸かりながら携帯で「Φなる・あぷろーち」をプレイしてる僕が悪いのです。
 それはさておき、トマス・モアの『ユートピア』(岩波文庫)を読む。カントの本はラテン語として読んでみることにしたので、先に読みやすい方から取り掛かるという小市民的魂胆です。さて、もともと「ユートピア」という言葉はギリシャ語の「ou(ない)」と「topos(場所)」とを組み合わせた「どこにもない国」というような意味で、モアの造語が起源というわけです。(参照
 本書で描かれる架空のユートピア国では私有財産制が否定されているために、この本は共産主義の文脈で読まれることが多く以前は「トマス・モア研究」の類が多かったようですが、比較的最近の政治学の著書ではモアに言及しないことも多くなってるようです。でも共有財産制以外に関しても面白いところは多いのではと。
 例えば、宗教と理性を一致させようと努めているように見える箇所(第9章)。モアは信教の自由を訴え、またユートピア国でもそのように制度化が済んでますが、

人間の霊魂は肉体とともに亡びてしまうものであるとか、世界は摂理などによる支配を受けず、ただでたらめに動いているにすぎないといった、人間性の威厳を損なうような卑しい考えを持つべきではない(p.162)

 要するに「狂気」は、「理性」によって従わせられなければならなかった。考えてみればおかしな話であって、宗教の内実が理性によって基礎付けられている。また一方では、哲学が宗教によって基礎付けられてもいる。(p.110) この辺りは、ルネサンス期の宗教分裂が戦乱を招いたことや、中世から近代へと移行しつつある点を背景として考えれば、いろいろと模索の跡として捉えることができるのではないかと。(モア自身は法律家かつ宗教家。(正確には大法官。))
 や、社会思想としてではなく読み物としても面白い本ですよ。(一応フォロー。)