コップの水の温度を正確に測ることはできない

 小森陽一『ポストコロニアル』(岩波書店、2001年)を読んだ。
 観察はつねに・すでに行為だから、対象に作用してしまう。*1(あえて社会科学の言葉で言ってみる。前半部分だけ。)で、てっきり僕は「ポストコロニアリズム」とはそういう「観察不可能性」とか「観察が対象に与える作用」とか、そのあたりの観念的な議論がなされているのだと思っていた。少なくともこの本に関しては、具体的な話(実践)がほとんどだった。そのせいか、あまり「わかった!」という気分にはならなかった。
 直接サイード『オリエンタリズム』を読め、ということかもしれない。

*1:「観察が対象に与える影響Aを考慮して観察しよう」と言ったところで無駄である。その場合、「対象に与える影響Aを考慮した観察行為」が対象に与える影響Bは考慮されていない。たとえ影響Bも一緒に考慮したとしても、「影響Aと影響Bを考慮した観察行為」が対象に与える影響Cは考慮されない。<コンスタティブ/パフォーマティブ>の差異を解消することはできない。