ライトノベルの話

 とりあえずいま自分が考えていることは、この辺りで書く尽くせると考えてます。いや、そもそも何でこんな吐露を書き出してるのか、と自分でも疑問です。暇つぶしだと思ってください。

ジャンルの再生産の話

 ある作品はなぜ特定の単一ジャンルに分類されることが多いのか、という点。私はわからないと言ってましたが、ぎをらむさんの指摘が正しいかと思います。
 コメント欄でぎをらむさんが仰ったように、クリエーター側も「この作品はミステリである」と観察しながら小説を書き、「ミステリである」というパッケージで包んで世に出すので(帯の煽り文、等々)、読者の目に触れた時に、「ミステリである」かつ「SFではない」かつ「純文学ではない」といったふうに単一システムからのみ肯定的な観察がされやすい、ということはこれで説明できるでしょう。
 となると、「ジャンル・システム」が内部システムに及ぼす特殊な影響のようなものを考えなくても、ジャンルは再生産・固定化されることになります。すると「ジャンル・システム」なる存在はなくても構わないので、よし、この想定は放棄しよう。(もともとこのシステムは、「ジャンル分類」を可能にするために想定されたものだった。)
 ただ、特定の単一システムから「……である」と観察されやすいことの説明にはなっても、単一システムの「……である」という観察しか許さないことの説明にはならないので、原則的には、特定の作品について複数の「……である」という観察が並列することを妨げないと考えるべきかと思います。
 というのも「システム」の数は可能性としてはいくらでも増えうるので、例えば「恋愛小説システム」や「学園小説システム」というものの存在もありえます。(実際存在するでしょう。観察の種類だけシステムは存在します。)あらゆる肯定的観察(例えば「恋愛小説である」「学園小説である」といったもの)を排除して、唯一「ミステリである」という肯定的観察だけを成立させるのは、不可能だと思うからです。

「ジャンル」という言葉

 ここでは「ジャンル」という言葉を、一般的な用法に従って、「諸観察のカテゴリの種類」「諸観察が同一平面上にあってお互いに他を排する性質」のようなものと考えることにします。
 例えば「SF」や「ミステリ」が「ジャンル」であるとしたら、「SFかつミステリである、ということはありえない」ということになって、対象物は「SF」か「ミステリ」のどちらかに分類されるか、あるいはそのどちらでもない、ということになります。
 前節の論に従えば、この「ジャンル」という概念は仮想的・理念的なものであって、実体的・本質的・固定的なものでないことは明らかです。(諸作品を特定の単一ジャンルに分類することは不可能なのに、「ジャンル」という概念はそれが可能だという前提で使われている(ことが多い)から。)「ジャンル」という概念は、言説によって構築される可変的なものだという捉え方です。
 よって諸作品を特定「ジャンル」に分類しようとするのは、言説による力だ、と考えておきます。(小説は必然的に「ジャンル」に分類されるのではない。)

ライトノベル」はジャンルかどうか

 私は「ライトノベル」は、現時点では、ジャンルであったりそうでなかったり、観察するその場その場によって異なる区別の基準が用いられているのだと考えています。
 ある場合には「ライトノベルである/でない」の区別の基準は、「表紙絵(イラスト)」であったり、「レーベル」であったり、「読みやすさ」とか「想定読者層は中高生」とか「マンガ・アニメ的な手法を取り入れている」であったり。
 で、ここからは今まで以上に根拠のない憶測なんですけど……。
 「SF」や「ミステリ」はジャンルであるわけですが、「SF(ミステリ)である/でない」という観察の基準は、小説の内容で決まりやすい、と思います、多分(かなり弱気)。安眠練炭さんの「ミステリとは何か?」の回答パターンを見ても、そう言える、と思います。
(刊行される時に「ミステリである」というパッケージに包まれている点も、観察の結果に大きな影響を与えると思いますが、その影響がどの程度まで及ぶのか私には分からないので、今はこの側面は捨象しておきます。)
 一方「ライトノベル」は、例えば「表紙絵」という区別の基準を採用すれば、小説の内容に関わらず「ライトノベルである/でない」と観察しえます。なので「表紙絵がある」という点だけから、一般に「SF」や「ミステリ」であると名指されている作品に対しても、「ライトノベルである」と観察することを妨げない、と。
 あるいは「会話が多い」とか「キャラクター性が強い」というような「小説内容の何らかの要素」を「ライトノベルである/でない」の基準に採用した場合は、つまり「ライトノベル」は「ジャンル」(=小説内容で決まる)であると想定した場合は、「SFである」や「ミステリである」という諸観察と両立しないものとされることになりえます。
 なぜ「ライトノベル」の基準が多元的・不確定的なのかは私にはよくわかりません。しかし現に「ライトノベルである」という観察を観察すると、どうもそういう風に思います。
 ただ基準が多元的だから、ということが、今「ライトノベルである」と観察される作品が増えていることの説明にはなります。
 これが結論。システム理論を使う必要はなかった気がかなりします。

「これはライトノベルじゃない。」

 「ライトノベル」という概念を上のように考えれば、「ライトノベルである」と観察される作品数はものすごく増えるわけですが、その過程で「これはSF(ミステリ)だから、ライトノベルじゃない」というような批判が出ることもあります、ていうか出てます。
 この批判が前提としてるのは「ライトノベル=ジャンル」という想定ですが、「ライトノベルである」と観察してるシステムにしてみれば基準は色々・その場その場ですから、前提からして食い違ってるわけです。
(念のため書いておくと、私はそのような批判が出ることを批判したいのではない。「○○すべきだ/すべきでない」という規範的な判断をしたいのではない。)
 で、「ライトノベル」の基準が今後収束していくのか、それとも不変あるいは拡大していくのか、はわかりませんが、どうなるか楽しみではあります。
 以上、私がいま考えているのはこんな所です。
 あとは以上に関連した雑感。

電撃文庫のスローガン「ライトノベルをぶっつぶせ」

 ネット上このスローガンが知れたのは、2004年の電撃文庫忘年会のキーワードとして言葉が出てきたことが、公式サイトに載ったこと。ウチのサイトでの紹介は2004年12月25日。以後、2005年4月9日にも記録あり。その後、「ぶっつぶせ」という言葉が刺激的だったためか、現在は「ライトノベルを突破しろ」(「電撃文庫ダイナマイトキャンペーン」のスローガン)になって現在に至る。
 この言葉は色々な解釈が可能だと思いますが、ともかく、「現在の『ライトノベル』の枠組みを解体あるいは再構築しよう」くらいの意味が無難でしょう。では「それ以前のライトノベルという枠組み」を電撃文庫がどう考えていたのか、という点は、実際にそれ以後電撃文庫がどう変わったか、を観察することによって理解することができると思います。
 「ライトノベルをぶっつぶせ」のスローガン以後、とても目立つ変化としては、「イラストなしの小説」「ハードカバー」の刊行でしょうね。電撃文庫が「イラスト」「判型」を「ライトノベル」の枠組み(のひとつ)として捉えていたことは確か。
 他にも私の気付かないところで変化があるのかもしれませんが。それは以後の私の課題ということで。

システム分化

 あまりに広がりすぎて内部の複雑性が高まったシステムは、複数のシステムに分化して、複雑性を縮減することは十分考えられると思います。「ライトノベル」の中に、システムAとシステムBが生まれるという。
 既にその端緒は、「対象年齢が高めのライトノベル」という形で現れてるのではないかと思ってます。例えば「ファウスト系」、電撃文庫ハードカバー、「ミドルノベル」とされるトクマノベルス<Edge>など。

システム理論の限界とか私の限界

 少なくとも私の知るシステム理論*1は、発生・変容といったシステムの動態的な側面をうまく記述できません。これを記述するためには、(マクロ的なシステム理論ではなく)もっとミクロなアプローチが必要だと思います*2。「作家Xの作品Aによってこのジャンルは変わった」というような。
 あとシステム理論ではない別のアプローチを使っても、今回と同じようなことは記述できる気がする。うーん。勉強しなくてはいけないなー。

*1:おもにルーマンの社会システム理論を指している。

*2:この点は河野勝『制度』(東京大学出版会、2002年)に詳しい。