上の続き

 ここで私がやりたいことを再確認。
 広く言えば「ライトノベル」界隈で起こっている出来事、つまりは「ジャンルの壁が崩れているように思えること」、「ライトノベルだと観察される作品の範囲が広がっているように思えること」、といった現象を、システム論を使ってうまく説明(あるいは理論化)できないかなあ、と思っているのです。
 「なぜシステム論なのか?」と言われるかも知れませんがこれは一つのアプローチにすぎないので、無論ほかのアプローチもありえます、と。
(しかしN先輩にこれを見られたら「君、こんなのをシステム論と言い張っているのかね?」とか言われそうだなあ。)
 以下すべて仮説。

システムと観察

 いま私が考えている図はこんな感じになってます。一番外側にあるのが「小説システム」、その内部にまたシステムが入り込んでる格好です。「ライトノベルはジャンルではない」という意味から、「ジャンル・システム(仮)」の外側に配置してみました。
 重要なのは、その作品が「“本当は”どのシステムに属するのか」ということではなく、「どのシステムから観察され、どのように記述されるか」だと思うのです。
 ある作品を観察する時、観察者はどのシステムから観察しているかが重要になります。観察者が「SFシステム」に立てば、その作品は「SFである/SFではない」と観察されます。(SFシステムからは「ミステリである/でない」というようには観察されない。)「ミステリ・システム」からの観察も「ライトノベル・システム」からの観察も以下同様。なので、単一の作品についても、異なるシステムからの観察によって、異なるラベリング(記述)はあるでしょう。
 もっと広い「小説システム」から観察すれば、対象は「小説である/小説ではない」と観察されることになります。

観察対象

 その意味で、観察対象は無制限だと思います。例えば「国民新党」も観察対象でありえるので、「国民新党ライトノベルではない」という具合に記述されます。
 まあしかし。政党は「ライトノベルである/でない」の観察対象にもともと含めない(適切でない)と考える仕方も可能です。従って政党は、「ライトノベルである」と観察される可能性は原則的に存在しない、ということになります。(政党が観察対象に含まれるのであれば、原則的には、「ライトノベルである」と観察される可能性は存在する。しかしもとより政党が観察対象に含まれないのであれば、その可能性は当然存在しない。)そのように想定しても、多分不都合は生じないでしょう。
 でも、「何を観察対象に含めるかは事前に限定されている」とするなら、対象に含める/含めないの基準は何なのか、という問題があります。たとえ「ライトノベル・システムからの観察対象は、小説に限定する」と無難と思われる想定をしたとしても(それ自体が決断主義的ですが)、「月姫」・「Fate」・「ひぐらし」のようなノベルゲームを観察対象から除外してしまう、というような事態が発生します。(実際、「Fate美少女ゲームライトノベル化だ」というような観察もされてるようです。)従って、システムからの観察対象は、とりあえず無制限だと考えておいた方が慎重だと思います。
 ただ唯一、観察対象に含まれないものは、「その観察する行為」あるいは「観察しているそのシステム」でしょう。自己言及的に観察すると起こるパラドックス、例えば「クレタ人は嘘つきだ。」と主張するクレタ人のような。

個々の作品のジャンル分類

 本来なら、全てのシステム(SF、ミステリ)から、全ての対象(作品)が観察可能であるので、全ての対象は「SFである」と観察されたり「ミステリである」と観察されたりします。「このミス」、「SFが読みたい」の両方の年間ベストに『マルドゥック・スクランブル』や『犬は勘定に入れません』が入ったりするのは、その例でしょう。
 が、「ジャンル・システム」の中ではその原則が破れている。……ような気がするのですが、よくわかりません。
 というのも、作品を「各ジャンルに分類する」ということは日常的に行われていることですが、それは上の原則に反してるからです。(上の2作品は特殊な例と考えるべきなんだろうか?自問自答。)
 通常「ジャンル・システム」の中では、一度「SFシステム」から「SFである」と観察(分類)されれば、それは即ち「純文学システム」からは「純文学ではない」と観察されることを意味する。同じく「ミステリ・システム」からは「ミステリではない」と観察されることになる。それが「作品を各ジャンルに分類する」ことの意味です。
 しかし、それぞれのシステムは独立しているはずなのに、なぜ、ひとつのシステムが行った観察が、他のシステムの観察行為にまで影響を与えるのだろうか?
 ひとつの回答は、「偶然ひとつのシステムからしか“〜〜である”と観察されず、他のすべてのシステムからは“〜〜でない”と観察されたからだ。」というものが考えられます。つまり、他システムに対しての影響など存在しない、ジャンル分類が可能なのは偶然の産物、という。
 もうひとつの回答は、「ジャンル・システム」がその内部システムに対して何らかの影響力をもたらしているからだ、というものがあります。
(そもそもジャンル分類とは何なのか? 特定の作品について「SFである」という観察と「ミステリである」という観察を両立できず、片方に「分類」させようとする原因は何なのか? 例えば、「ミステリである」「ハードカバーである」「値段は1500円である」という諸観察は両立できているのだけれど。「今の例は、カテゴリの相違があるから諸観察は両立可能なのだ」と言えば確かにそうなのですが、「カテゴリが適合的である/でない」の区別の基準はどこに求めるのだろう?)
 が、この辺りはまだ考える必要がありそう。

 「ライトノベル」と「ジャンル」の関係についても、再配置する必要があるかも……。