一般論と、ライトノベルとそうでないもの

 「まんたんブロード」のライトノベル特集を見ました。歴史概説、作家インタビュー、絵師対談、と布陣は完璧。中でも一番興味深いのは東さんのインタビューでした。
 特に結論もないんですが、自分が今考えていること・問題意識をメモしてみました。どれも考え中のものなので、暫定的な思考の羅列です。
 よく「ライトノベル」によって「ジャンルの壁が崩れてきた」というようなことが言われるのですが、おそらくそれは「ライトノベル」が既存の意味での「ジャンル」ではないからだ、と考えてます。SF・ミステリ・純文学を指す意味での「ジャンル」というカテゴリとは次元が異なるカテゴリの一つが、「ライトノベル」だろうなと。なので、「ライトノベル」が意味するモノは、「ジャンル」よりもっと広い意味での「システム」が適当かと思っています。(「ジャンル」は「システム」のひとつという認識。)
 だからこの「ライトノベルシステム」から観察すれば、世の中のすべての小説は「ライトノベル/非ライトノベル」と区別されるので、そこに「SFである」とか「ミステリである」という観察は原則ありえない。実際には十分ありうるのだけれど、それは副次的なもので、まず真っ先には「ライトノベル/非ライトノベル」という区別が先行する、と思う。たぶん。(なので「ミステリ」的な作品に対しても、「ミステリ」的要素に一切触れずに「ライトノベル」的に感想を書く、ということは十分可能。そしてそれは非難されることではないと思うのですが…この点については判断保留。)
 この「ライトノベルと非ライトノベルを分かつ基準は何か」という問いは、とりあえず無効。この区別の基準は、最初に「ライトノベルの基準は○○ってことでよろしく」と決めていたわけでもなければ、客観的に観察できるものでもない。たとえ事前に「基準は○○である」と決めていたとしても、「では○○と非○○の区別の基準は何か」という無限後退。無限に後退するというより、おそらくその形は円環だと思う。で、だから「ライトノベル」とそうでないものの基準は本質的なものではないですし、デリダ風に言えばいつでも脱構築可能(むしろ脱構築は始まっている)。「ライトノベル」とそうでないものの基準は、常に暫定的です。
 と、ここまではわりと一般論。のつもりです。
 この「ライトノベル」の捉え方と、「ジャンルの壁を崩す」という現象をどう連結させるかが今の問題意識です。「ライトノベル」を、複数並列する「ジャンル」のひとつではなく、メタな位置に在る「システム」のひとつと考えれば、「ジャンルの壁を崩す」ように見えるのは当然とも思えるのですが。しかしそうだとすると、なぜ「ライトノベル」がその位置にあり、その他のSFやミステリといったモノがその位置にないのか、という疑問が浮かびます。
 さらに東さんは、「ライトノベル」の特徴を「現代の小説がアニメ・マンガ的な文法や技法を取り入れることで、小説の表現に変化や多様性をもたらして生まれたもの」と言っています。そしてここでは、「アニメ・マンガ」といったキーワードではもはや語りえない、と。私が危惧するのは、むしろ「ライトノベル」が「アニメ・マンガ」の植民地にされていないか、ということです。俗っぽい言い方をすれば「自主性/オリジナリティはあるか」ということなのですが。もし「ライトノベル」が、「アニメ・マンガ」から一方的に影響を受けるばかりの受動的なものであれば、「ライトノベル」は「アニメ・マンガ」の派生物でしかない、とも言えるかも知れません(それは「悪い」ことではないかも知れないですし)。「ライトノベル」は植民地ではない、というなら、どういう具合にそれを記述すればいいのかな、という点で考えてみる。
 特に結論もありませんが、今考えているのはこういう感じです。