本に線をひく

 本にエンピツで線がひいてあった。
 読んでた本に突然そういうページが出てきた。今日は久しく本を思いっきり読むことにして、前々から積んでいた本を2冊手に取ったのだけれど、両方ともそういう線がひいてあったのだった。
 片方の本は、古書店で買った新書だった。一般向けの哲学入門書といったところで、有名な著者のものだったのでつい手にとって買っておいた本だった。エンピツでやたら大量に線が入っていて、しかも、さほど重要ではない枝葉である文章に線が入っているように僕は思った。線だけではなく、語を○や△で囲ったり、そういうテクを駆使してこの人は本を読み解いていた。なんだか恥ずかしい、と僕は思った。そして、この人は線をひく箇所にセンスがないな、と思った。僕はこの本に線を書き入れた人のことを考えた。線をひく箇所と、そのセンスからいって、どうもこの人は普段あまり本を読まない人で、読書感想文だかレポートを書くために慌ててこの本を買ったらしい。僕はそう推察して、しかもこの本が売却された古書店の近辺に住んでいる人に違いない、と思った(実際にはこの本は別の古書店で売却されたものかもしれないので、その場合はこの限りではなくなる)。しかし、線をひいた箇所に関する僕の評価の妥当性はともかくして(線をひくべき箇所のセンスがないのは僕の方で、この人の読み方のほうが正しいのかもしれないし、文章の論旨の本質は何か?という問いを踏まえると話が先に進まない)、僕はここで恥ずかしく感じて、なおかつ本当を言うと少し面白く感じたのは、本来なら匿名であるはずの「この本の前の読者」の顔がちょっとだけ覗けたからだった。
 一方、もう片方の本はちょっと勝手が違うように思った。それは大学の教科書で、新学期の履修を前にして「政治学原論」なる科目がどんなものかを知るために大学図書館で借りたのだった。あとで同じ本を大学生協で買うつもりなのであって、図書館で借りて教科書代金を浮かそうという貧困な発想というわけじゃない。だけれど、この本を前に借りた学生はそうではなかったらしくて、本のあちこちに授業中のメモらしき書き込みや、アンダーラインがあった。この本の前の読者は、この本を授業に持ち込んで線をひいたりしたらしかった。僕は、その書き込みを参考にしながらその本を読んだ。正直いってその教科書はちょっとばかり難解だった。だからアンダーラインがあるおかげで、少しだけ読み解く助けになって僕は嬉しかった。この本のエンピツの線や書き込みからも、「この本の前の読者」の様子を伺えたのだけれど、前の本と違って、恥ずかしい、という気持ちに僕はならなかった。僕はこの自分が恥ずかしいと感じている正体がなんなのかここで気になった。前の新書と今の教科書とどういう違いがあったのか考えることに僕はした。
 どちらもエンピツで線がひかれていて、その人の顔が覗かれたことについては差異がない。仮説として、新書の方の読者は、僕からみれば本を読むことに関していささか幼稚に見えて、それで僕はその人のことを嘲り笑う意味で「恥ずかしく」なったのかと考えた。でもそれだと「恥ずかしい」という気持ちになる必然性はなく、単に嘲り笑う気持ちが僕に起こればよかったはずなので、これは変だなと思った。嘲り笑う気持ちと、この「恥ずかしい」という気持ちは一緒ではないな、と思った。
 なので僕は別の仮説を考えた。新書の線の方は、その人が大事だと思ったところに線がひかれている。だからその人の価値観や考え方が僕にまるまる見えてしまうことになる。一方、教科書のほうの線は、授業を聞きながら書き込まれたものであれば、おそらく教官が大事と示唆した場所に書き込まれているに違いない。だとすればその線がひかれた場所を見ても、僕には前の読者がどういう考えを持った人なのかはうかがい知ることができない。なるほど、このアイデアに立てば、その人が「なぜその文に線をひいたか」という点から、その人の価値観・考えが僕に丸見えになってしまい、僕はまるで他人の部屋の中をつい見てしまった時のように、顔を赤らめることになったのかもしれない。でも困ったことに思い至った。例えば、その新書の奥付の余白に、その人がこの本のレビューを書いていたとする。そのレビューは他人に見せるためのものではなくて、純粋にその人のためのメモ書きだったとする。僕はこのレビューを見て「恥ずかしく」なるか。たぶんならない。いや、なったとしても、僕が今日感じた「恥ずかしさ」には量的に足りない、と僕は思った。本の最後に付されたレビューは、きっちりその人の考えが整理されて書かれている(ことが多い)ので、たとえそれを僕が読んだとしても、ふんふんと参考にするだけだと思う。つまりそれは教科書のほうに書き込まれたメモと、同じようなものだ(教科書のメモは、教官の考えがまとめられた上で書き込まれているのだから)。
 つまり、未整理の段階の書き込みなら恥ずかしいのかもしれない。と僕はひらめいた。新書の方は、その人が読みながら、リアルタイムでの考えや気持ちが線やメモ書きという形になって、本に刻印されたものだ。それは本を読んでいる時の、その人の頭の中のリアルタイムの動きが僕に知れてしまう。リアルタイム! こんな恥ずかしいことはないんじゃないか、と僕は考えた。その人が、本のある記述に出会って、これは大事だなとか、そういう読み進める際のリアルタイムの読み解き、「解釈」が、他人に手にとるように(とまでは言わなくとも)知られてしまう。これが、本を読み終えて考えを整理した後でのレビューなら、構わない。だけど、本をどう読んでいるか、そのまさに「読んでいる時」の心の動き(その記述をどう考えているか?)が知られてしまうというのは、まさに自分の心を読まれている落ち着きのなさ、恥ずかしさを覚えるのではないか。これを僕は、他人の部屋の中を見てしまった時のように「恥ずかしい」と感じたのではないか。
 僕はそう考えた。僕はその答えにとりあえず納得したので、それ以上考えることをやめた。僕は寝ることにした。
 それからエンピツで書き込むのではなくて付箋を使おうよ、と言いたかった。